器の内外面に絵模様を描いたものがある。陶芸・大分県
臼杵焼の起こりは、寛政11年(1799年)に稲葉家十代藩主稲葉弘通が隠居した2年後の、享和2年(1801年)。藩が末広の善法寺の竹尾川に沿って南へ約700メートルほど奥にはいった、三方を小高い山に囲まれた谷間に窯場を開き、奉行をおいて監督させている。隠居して伊賀入道と称した弘道は、画を好み、自らも人物、花鳥を描くという風流殿様で、文化、芸術に趣味の持った入道の希望で臼杵焼が始められたのではないかと推測される。
窯場は文化元年(1804年)から6年ごろまで栄えていたようだが、わずか数年にして窯を閉じてしまっているのである。短期間で末広焼の生産を停止せざるを得なかった原因を明らかにする資料はないが、いくつかの要因は考えられる。まず第一に、臼杵には焼物の原料となるべき陶石がないということである。原料購入の費用、臼杵までの運搬費用などの経費がかさみ採算が取れなくなった。第二に、安くて質の良い品物が、藩外から多量にもたらされるようになった。第三に、連房式の登窯であったため、自然条件あるいは窯への火入れやその調整といった人為的な要因などによって、窯詰された品物のすべてが成功したとは限らなかったなどといった点が推測される。生産性と採算、さらに新しい製品の大量流入による販路の縮小といった点から次第に利益が減り、商売として成り立たなくなって廃窯という結果を招いたと考えられる。
窯場は文化元年(1804年)から6年ごろまで栄えていたようだが、わずか数年にして窯を閉じてしまっているのである。短期間で末広焼の生産を停止せざるを得なかった原因を明らかにする資料はないが、いくつかの要因は考えられる。まず第一に、臼杵には焼物の原料となるべき陶石がないということである。原料購入の費用、臼杵までの運搬費用などの経費がかさみ採算が取れなくなった。第二に、安くて質の良い品物が、藩外から多量にもたらされるようになった。第三に、連房式の登窯であったため、自然条件あるいは窯への火入れやその調整といった人為的な要因などによって、窯詰された品物のすべてが成功したとは限らなかったなどといった点が推測される。生産性と採算、さらに新しい製品の大量流入による販路の縮小といった点から次第に利益が減り、商売として成り立たなくなって廃窯という結果を招いたと考えられる。
update:2009年09月23日
